カテゴリ:母の遺したもの( 10 )

 

母の遺したもの 母の味⑤

11月 朝鮮漬け 11月になって白菜が出回ると、母は「朝鮮漬け」を作った。白菜は「花芯」という、一足早く出回ってすぐになくなる品種でなければ駄目だそうで、花芯が出るとすぐに何株も買い込んだ。
「朝鮮漬け」と呼んでいたが、今ならキムチだろう。でも、韓国直送のキムチとは似て非なるものだった。だいたい色が白く透きとおっていて赤くない。韓国の粉唐辛子ではなく、鷹の爪を薄く輪切りにして使っていたためだろう。
「アミの塩辛は絶対入れなきゃ。」と言って、上野のアメ横までわざわざ買いに行っていた。その他、人参、ネギ、生姜、にんにく、桜海老・・・などが入っていたように思う。キムチより酸味が強く、日がたつと発酵してサイダーが発泡しているような食感がたまらなくおいしかった。10日ほどで味が変わってしまうので、一冬に何度か作っていた。正月も過ぎ、余った餅を揚げ餅にして大根おろしの上に乗せ、しょうゆと朝鮮漬けの汁をかけて食べる、あの味を思い出すと、今でも口の中につばが湧いてくる。

朝鮮漬けの他に、白菜漬けも桶いっぱい作った。にんにくと唐辛子を間にはさんで、ざっくり切った株のまま漬ける。1日でびっくりするくらいの水が上がって来た。白菜の芯のところが飴色に透きとおってきたころの白菜漬けは、朝鮮漬けにはないシンプルなうまみで、それだけでご飯が何杯でも食べられた。

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織りと人形作りと編み物だけでは飽き足らず、母は小さな「浮気」を何度かした。テキスタイルの個展を2度も開催して母が織りをする人だということが知人の間では広く知れ渡っていたころ、客に来た方が
「今は何を作っていらっしゃるんですか?」と聞いた。母は、
「今、これよ。」と言って、大きな木の皿を指差した。皿の上には何も乗っていない。客が怪訝そうな顔をすると
「一刀彫りよ。」と、得意そうに言う。いろいろな彫刻刀を使い分けず、たった1本の刀で作品を彫り上げる一刀彫りが好きで、娘の初節句にも一刀彫りのお内裏様を買ってくれた。それを、今やっているというのである。刀も出して来て見せていたが、道具や材料には金を惜しまない母らしく、銘の入った大変高価なものだった。
父は常々、そんな母を「移り気すぎる。あれじゃ、趣味の域を出ることはできないんだよ」ということを批判的に言っていた。私は、それぞれの領域が、趣味以上のものになっていて、個展などでは次々と売れて評判になるほどなのだから、いいじゃない、と思っていたのだが、そのときばかりは脇で見ていてさすがに「ちょっとなぁ~。」と呆れる思いだった。
一刀彫りはしかし、その「何も乗っていない大皿」1点で終わったようだ。(あの高価な刀はどこへ行ったのだろう)
次に「浮気」したのがビーズ織りだった。

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◎ビーズ織りのネックレス。カード織りとも言っていた。いくつも穴の開いたカード型の道具に糸を通して、織るように作っていた。歳をとって、大きな織り機で敷物などを織るのが大変になったから始めた、というのが理由だった。

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◎ブローチ2種。セーターの胸元などにつけると引き立つ。

その他、ハンドバッグや財布など何点か作ったが、テキスタイルの膨大な作品数には比ぶべくもない。
ビーズ織りもやらなくなってほどなく、織りはもうやめたと言って、6畳の母のアトリエを占領していたスウェーデン製の織り機や糸紡ぎ機など一式を造形大に寄付してしまった。
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by pataponm | 2009-02-25 17:58 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 母の味④

10月  栗  栗も、栗林が近所にあったので八百屋からは買わなかった。虫食いの栗が結構あったが、「あたりまえ」と思っていた。八百屋の栗には何故虫がいないのだろう。卵1ぴき産み付けられないようにするため、いったいどんなことをしているんだろう・・・、と却って考えてしまう。
買って来て時間がたつと虫食いがどんどん進むので、すぐに茹でた。食卓の中央に茹でたての栗をザル一杯置き、家族全員がナイフを手に自分でむきながら食べたものだ。
夫は、栗を食べるとき歯でかち割った、と言う。歯で2つに噛み割って、実をもみだしたり吸い出したりして食べるのだ。私はやはり栗を壊さないようにきれいにむいて、ほっこり丸ごと口に入れるのがおいしいと思う。

栗ご飯 栗ご飯を作るためには生の栗をむかなければならない。よく手伝わされて、少しも楽しくなかったのを覚えている。栗をむくのは、りんごの皮むきとは比べものにならないくらい苦労だ。茹でた栗の皮は生よりは柔らかく、第一、むいたご褒美に口に入れることができる。栗ご飯の準備は、むいた栗がすぐには自分の口に入らないのだ。
でも、酒、塩を加えて炊いた栗ご飯はおいしかった。

栗の渋皮煮 これも生栗をむくのだが、栗ご飯の栗をむくより遥かに技術を要する。
栗の渋皮を残して、鬼皮だけをむくのだ。渋皮にピンホールでも傷が付くと、煮崩れてしまう。
重曹小さじ1入れたたっぷりの湯で30分くらい茹でて、そのまま1晩冷ます。渋皮に傷がつかないように1つずつ取り出して、楊枝で渋皮のひだについている筋を取る(渋皮に穴が開かないように!)。そのあと水から茹で取り出す・・・を3回繰り返す。最後に栗の分量の半分の砂糖を入れ水から煮る。そのまま1晩冷ます。母は「3日がかり」と言っていた。どの工程でも、渋皮を傷つけないように細心の注意を払うのは言うまでもないが、それでも3分の1くらいは崩れてしまった。
うまくできたものは、和風マロングラッセと言いたいくらいおいしい。

なめこ・しいたけ  山が多く日当たりの悪い土地柄、しいたけの栽培も盛んだった。母の好奇心は留まるところを知らない。しいたけとなめこの菌をわけてもらって、木に植え付けて栽培を始めた。暗いところに置いておけば、それほど苦労せずに育つらしい。でも育ちすぎて、なめこはいつも笠の直径5センチくらいのが味噌汁に浮いていた。
「小さいうち採るのがもったいなくて畑に置いとくから硬くなる」と、農家のおじさんに文句を言っていた母だが、小粒のうちになめこを採るのがもったいなかったのではないかしら。
「味は変わんないよ」と、農家のおじさんと同じようなことを言っていた。
さすがにキノコ類は続かず、お化けなめこ攻めは一秋で終わった。

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◎初期の作品のショール。1回目の作品展のときに出品して評判だった。私の会社の仲良しグループを連れて行ったら、皆独身貴族だったせいか、5人が全員買ってくれた。会社の昼休みに、5人グループが、少しずつ色と模様の違う豪華なショールを首に巻いて、横並びで歩いてランチを食べに行く姿は、しばらく話題になったものだ。

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◎1本25000円くらいの値段を付けていたのではないかと思う。しかし、それでも「時給200円」というくらい手間のかかる模様で、あまり大変なので、母は以後二度と同じものを作らなかった。

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◎ショールは、服との合わせや巻き方などが難しいので、つい、コートにマフラー押し込んで出掛けてしまったりして、このショールの出番があまりない。
最近娘が目をつけて、うまく着こなしている。「欲しい。」「ダメ。」の攻防である。
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by pataponm | 2009-02-03 11:13 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 母の味③

7月・8月 畑の作物 母は、実家に隣接した100坪の土地を地主さんから借りて畑にしていた。そこで採れた何十種類もの野菜も、母の味といえるだろう。
好奇心の塊のような母は、近所の農家の人からちょっと珍しい野菜の名前を聞くと、早速苗を分けてもらって植えていた。当時は八百屋にもなかったオクラの味を知ったのも母の畑からだし、現地特産の「のらぼう」という菜花に似た野菜も初めて食べた。
一つの作物の収穫時の量といったら半端ではない。出荷しているわけではないので、人に分けても余り、採れる時期には来る日も来る日もその野菜ばかりが食卓に上った。でも不思議と飽きた記憶がない。茹でたグリーンアスパラガスをサラダボールに山盛りよそり、マヨネーズを「ぐりぐり」と搾り出して食べたうまさは忘れられない。毎日学校から帰ると、おやつ代わりに食べた。あまりたくさん食べたので、兄が「しょんべんがアスパラガスの臭いになった。」と言っていた。(でも、これはほんとうのことなのだ!)
苺も、どんぶり一杯、砂糖をかけて潰して牛乳をどぼどぼと注いで毎日食べた。

きゅうりは、その日に採れたのがいつでもざる一杯、流しに置いてあった。母は、大量に漬物にして人に配っていたようだ。
一度塩漬けしたあと三杯酢に漬けたきゅうり漬けは、母の友人たちから「〇〇(母の名前)漬け」と呼ばれ、うちでもそのように呼ぶようになった。ぬか漬けにしたきゅうりも毎日2、3本食卓に出たが残らなかった。
ぬか漬けといえば、よく祖母の代からのぬか床を守る、なんて言うが、母は、毎年春になると全部のぬか床を新しくしていたようだ。
ところで、ぬか床は、どこの家庭にもあるのが当たり前と思っていたのだが、山形ではぬか漬けを食べる習慣がないということを結婚して初めて知った。義母に「ぬか漬けは食べないんですか?」と聞いたとき、「こっちでは、ざらめを使う。」などと話が食い違うので変だと思ったら、三五八漬けと勘違いしていたことが分かった。それだけ「ぬか漬け」という言葉に馴染みがなかったということだろう。

なすは、へたにトゲのある黒光りするようなのがやはり山のように採れた。
「みょうがとなすの卵とじ」が、それこそ祖母の代からの「うちの味」だ。たんざくに切ってアク出ししたなすを甘辛く煮て、その上に薄切りしたみょうがを重ねてさっと煮、卵でとじる。三つ葉を散らす。

これだけいろいろ畑で作っていても足りない野菜は、農家に買いに行った。
そして、少しでも難点があると「硬いわね。小さいうちに採るのがもったいなくて、いつまでも畑に置いとくから硬くなっちゃうのよ。」とか「これ古くない? せっかく生産者のところまで買いに来てるんだから、新鮮なの売ってよ。」など、ぽんぽん言う。
農家の主人が「だけんど、八百屋よりゃ、安いわな。」と言うと、間髪入れず、
「八百屋より高かったら、こんなとこまで買いに来やしないわよ。」と言い返す。
それでも、「さくい(気さくな)奥さん」などと言われて、嫌われることもなく、耕作の秘訣やいい苗の情報などを教えてもらっていた。

9月 カステラ 特に9月に作っていたというわけではないが、9月として特筆すべきものがなかったので、自家製カステラを。
料理好きな母だったが、お菓子作りには苦手意識があったのか、ケーキやクッキーはほとんど作らなかった。私が小さかったころによく作っていたが、温度設定もタイマーもない出始めのオーブンで、黒こげの失敗作ばかり焼いていたのがトラウマになったのだろうか。
それでも、カステラ作りはよくやった。木の枠を自分で作り、「長崎カステラ」と同じ味のカステラを作り、人にあげては喜ばれていた。

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◎この写真は、母が山に行くたびに買って来たバッヂだ。ざっと50個はあるだろうか。母は、山歩きも趣味だった。
父が一緒に行ってくれないので、「中高年の山の会」に入り、日本中の山を歩いた。山小屋3泊の日本アルプス縦走なんていうのもやってのけた。
最高齢70歳代という山の会なのに本格的な山登りをするので、テレビ局の取材を受けて、「中高年ばんざい」みたいな番組として放映されたこともある。急な登山道を元気に歩いたり、おにぎりをほおばったり、心底嬉しそうな母の姿が映っていた。
バッヂに書かれた山の名を見ると「尾瀬、駒ケ岳、夜叉神峠、雲取山、丹沢、妙義山、茶臼岳、立山、赤城山、北岳、八ヶ岳連峰、剣岳、上高知、大山・・・」実にいろいろと登っていたことが分かる。バッヂを買わなかった山もあるだろうから、登った山は100近いかも知れない。でも、景色を眺めながら気分よく歩くのが目的で「有名な山制覇」という野心はなく、「山の会も、百名山を制覇したいって人が出てくるようになったのでつまらなくなった。」と言っていた。
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by pataponm | 2009-01-14 10:44 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 母の味②

5月 苺ジャム・シロップ 苺が出回ると、鍋いっぱい苺ジャムを作った。あまり煮詰めず、ペクチンを加えて粘りを出すこともせず、煮詰める途中で大量にできる液を取り分けて苺シロップとして使った。ジャムも、新鮮な苺の香りが生きていておいしかったが、私にとって母の味は、むしろ副産物のシロップの方かもしれない。
シロップは、ジュースやアイスキャンディー、ゼリーなどになって、この時期は、学校から帰って来て冷蔵庫を開けるのが楽しみだったものだ。

苺ゼリー 特別に項目を設けて苺ゼリーのことを書くのは、これがゼライスなどを使ってゼリー型で冷やし固めるゼリーではないからだ。上の項目に書いた冷蔵庫に入っていたゼリーはスプーンで食べる普通のゼリーで、母はそれもよく作ったが、それとは別に、有名菓子店などで売っているオブラートに包まれた固いゼリーも作った。
寒天と砂糖と水あめと果汁で作るらしいが、温度調節を間違えると全く固まらないそうだ。そのために温度計を買って、とことん凝る母らしく、何度も失敗しながら作っていた。最後には、人に手作りと言ってあげると驚かれるくらいの出来栄えになった。

6月 梅干 母の作る梅干はおいしい。毎年必ず樽いっぱいの梅干を作った。塩漬けにした梅干を赤紫蘇漬けにする前に3日間天日に干す。ござの上に干してある梅干をつまみ食いするのが好きだった。梅干は、カラカラに乾いていて中はしっとり、日向のにおいがして口に入れると太陽の熱を含んで温かかった。
母は、素材を吟味して最もおいしいものを手作りしていて、海苔や昆布も、一番ランクの上の特選のものしか使わなかった。そういうものを食べて育ったのに、私はお金を惜しんで最低ランクの海苔や味噌を買って平気で食べている。しかし、梅干だけは、スーパーで売っている色素や防腐剤添加のものは買えなくなってしまった。
梅ももちろん大粒の上等な梅を使っていたのだろう。昆布をふんだんに入れ、塩分も控え目だったのに、けしてカビさせることなく作っていた。

梅酒 果実酒は、いろいろと作った。ドクダミ、サクランボ、クワ、ショウガ、ミカン・・・得体の知れない物が沈んだ果実種が、まだ実家の戸棚に入っている。
それらの果実種は思いつきで作ったが、梅酒は毎年作った。10年ものの梅酒などもあった。
 
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◎娘が小学生のころもらった母製作の人形。帽子はフェルトを型どって作った。ラメ入りのサマーセーターは手編み、ネックレスはビーズをつないで作り、靴は皮で作った。靴下もはいている。手の指は、針金に綿を巻いてその上に布をかぶせてあるらしいが、どうやってあんなに細い指が作れたのか分からない。

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◎私は、この人形の顔が、母が作ったものの中で一番好きだ。粘土で作った顔に布をかぶせてあるらしい。目は油絵の具で描いたものか。まつ毛もちゃんと植え込んである。
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by pataponm | 2008-12-19 11:20 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 母の味①

母は料理も好きだった。綺麗に飾ったり盛り付けたり、ということには興味がなく、味噌や果実酒や漬物など、何でも元から作るのが好きで、一つの物に凝ると失敗を繰り返しながら何度でも作った。旬を大事にして季節ごとに最も新鮮な物を仕入れては料理をしたので、その季節が巡ってくると母の味を思い出す。

1月 正月のお節はあまり作らなかったが、黒豆と豆きんとんは必ず作った。黒豆は「えぐみ」を嫌って何度も湯でこぼし上品な味に煮た。私はえぐいのが好きだったので、内心では「湯でこぼさないで~」と思っていた。今自分で煮るときは、漬け汁にそのまま味を付けて煮てしまう。
豆きんとんはとても美味しかった。私が真似て煮ても、あのこってりと粘りのきいた甘みを出すことができない。たまに栗の甘露煮とさつま芋を使って栗きんとんを作ったが、豆きんとんの方がずっと美味しかった。

雑煮は関東風で、トリ肉、里芋、大根、人参を具にしてすまし汁を作り、焼いた餅を入れて、ほうれん草、なると巻、海苔で飾る。

2月 五日市町(現あきる野市)に引っ越して驚いたのが、「鍛冶屋」と「麹屋」があったことだ。これ一つで商売が成り立つというのが不思議な気がした。
母は、2月になって新しい麹が出来ると麹屋から買って来て、1年分の味噌を作った。大豆を煮て太い棒でついて潰し、麹と塩を混ぜ合わせる。味噌を潰す棒を、母は木を削って自分で作った。大きなポリパケツに2杯、潰すのは父や兄の役目だった。米麹や麦麹で塩の配合も変えていろいろな味噌を作って楽しんでいたようだ。よく味噌は3年目が一番美味しいというが、1年くらいの、まだ塩が慣れていなくて麹の香りがする味噌の美味しさは格別だ。若い味噌が食べられるというのも、自家製味噌のいいところだろう。

3月、4月 山菜が出始めると、野山へ行ってわらび、つくし、よもぎなどを摘んできた。中でもつくしは毎年必ず摘んだ。料理法はただ一つ、「梅干煮」だ。摘んだ時間の3倍かけてハカマを取ったつくしを、味醂、醤油、ちぎった梅干で煮る。だしは入れない。母の家に伝わる味付けらしい。(4月のブログ記事参照)

よもぎは、一度茹でて、上新粉をせいろで蒸すときに一緒にいれてさらに熱を加えるが柔らかくならず、非常に強い繊維が残っている。なるべく繊維が細かくなるように刻んで、蒸した上新粉に練りこむ。熱いしなかなか混ざらないし、嫌な仕事だった。でもあんこを包んで食べると、これほど美味しいものはない。よもぎの香りが立ち昇ってくる。

筍が出始めると、竹林を持っている農家へ買いに行った。その場で掘ってもらうのだ。主人が出て来て、ほんの10センチほどしか顔を出していない筍の周りの土を、傷つけないように気をつけながら少し掘る。それから「筍の先がちょっと曲がっている方向に根があるので、そこを狙って掘るんだよ。」などと説明しながら、鍬を一気に振り下ろし、ぐいっと持ち上げるようにすると、スコン、と自分から飛び出して来るように大きな筍が掘れた。掘りたての筍は刺身で食べられるそうだ。
買って来た筍は、他に何の材料も加えず、筍だけを煮て大皿に盛った。さっき掘ったばかりの筍は甘くて柔らかくて春の味がした。

蕗はキャラブキにした。濃い味付けで長時間煮た蕗は細く縮んだようになって、私はあまり好きではなかったが、お茶漬けにはよく合った。

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◎母は、私の結婚式のお色直しのドレスの裾を切って仕立て直したとき、切り取った布で人形を作ってプレゼントしてくれた。
貴重なものなのに、無造作に何年もピアノの上に飾ったまま、ほこりだらけにしてしまった。

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スカートの下は、下着の長ズボンと3枚重ねのペチコート。スカートには裏地がついている。

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◎結婚式でバイオリンを弾く私。このドレスの裾を切ってよそ行きワンピースに仕立て直した。ドレスは、私が布を選んで母が縫った。
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by pataponm | 2008-12-17 15:47 | 母の遺したもの  

母の残したもの 彫刻

母が織物や人形作りに没頭し始めたのは、40代半ばからだった。私はそのころ学生で、卒業後はすぐ家を出たので、これらの母の趣味は「母が実家でやっていること」だった。個展などを開くときには手伝いに行ったりはしたが、どちらかといえば直接自分に関わるものではなかった。
でも、セーターは、生まれたときから母の編んだものを身につけていたといっていいくらいなので、セーターを見ていると自分自身の子供時代の思い出も共に蘇えってくる。
母は、一度買った毛糸は大切にして何度も編みなおし、けして無駄にはしなかった。ほどいた毛糸がちりちりになって山のようになっていた様子や、それを画板にまいて蒸気を当てて伸ばしていた様子などが、子供のころの思い出の中にある。
復元した毛糸を玉にする手伝いは私の子供時代の仕事だった。画板からそっと外した輪の状態になった毛糸を、伸ばした私の両腕にかけ、母がその糸を巻いて玉にしていくのだ。いったい、何百回この仕事をしただろう。子供ながらに私はすっかり熟練して、ぴんと張った両腕を八文字に回しながら毛糸を繰り出した。そうすると、玉に巻き取る母は腕を動かす必要がなく、その場でくるくると毛糸を巻いていればいいのだ。
子供のころ見たテレビドラマに、書生がお嬢さんに頼まれて毛糸巻きの手伝いをするシーンがあった。活発なお嬢さんに何か言われて青年がちょっとおどおどする。するとお嬢さんが
「ほら、腕をぴんと張って!」と言う。青年ははっとして「前へならえ」のように腕を前方にぴんと差すのだ。毛糸は腕の間にだらんと垂れたまま。
「おかしい。横にぴんと張らなきゃ。テレビの人、知らないんだ。」と、子供の私は思った。

彫刻もまた、私の子供時代の思い出の中にあるものだ。母は、目黒からあきる野市に引っ越したあと、つまり私が中学を卒業するころにはもう彫刻をやめてしまった。人の紹介で、佐藤忠良先生という今や世界的彫刻家になられた大先生の弟子になって教えを受けることができたのに、後年全く彫刻をやらなくなったのは、やはり本格的に彫刻をやるには場所や経済的な事情が許さなかったのだろうか。気力、才能も不足していたのかも知れない。

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◎個人的にモデルを雇うお金はなかったので、モデルはいつも家族だった。これは、私が9歳くらいのときのレリーフ。ブロンズで仕上げてある。このころ私は髪を長く伸ばしていて、毎朝母が私の髪をポニーテールに結んでくれた。容赦なくぎゅっ、ぎゅっと結わくのが痛かったが、私は黙ってじっと耐えていた・・・、という情景まで思い出す。

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◎10歳くらいのときの私。高さ10センチくらいの小さい作品で、粘土のまま石膏にもしていない(あるいは焼いたのだろうか)。母は何故か気に入っていて、処分した作品の多い中、長い間机の上に置いていた。

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◎これもモデルは私です・・・(あまり見ないで~~!!)
確か小学校6年生くらいだったろうか。目黒の2軒長屋の狭い都営住宅に住んでいたころだ。居間、食堂、寝室を兼ねていた4畳半に折りたたみ式の食卓を出し、その上に椅子を置いてポーズをした。暑い季節で、母が後ろの窓とカーテンを開け放すので「閉めて」と言ったが、「暑いし暗くなるから。誰も通らないよ。」と言って閉めてくれなかった。
ところが、なんと間の悪いことに、遊び友達のヨーコちゃんと弟のアキラくんが窓の横を通りかかったのだ。二人は私を見るなり、固まってしまった(そりゃそうだろう)。椅子を飛び降りて身を隠せば、恥ずかしさが一気に溢れそうで動くことも出来ず、そうかといって開き直って二人に手なんか振ったら異様な光景になってしまうので、私は二人を完全に無視してそれこそ石膏像のようにひたすらポーズをとり続けた。二人が視野から消えるや、「カーテン閉めて!」と叫んだのは言うまでもない。
家の手伝いにお駄賃はなかったが、モデルの仕事には、1時間100円くれた。20分ポーズをとって10分休み、これを2回。完成までに何回かやることになるので、月の小遣い600円の子供にとってはいい臨時収入だった。このポーズのまま、足元にマンガ本を置いて、足の指でページをめくりながら読んでいたのを思い出す。
この作品はブロンズ屋に出してブロンズ像に仕上げた。

他に1歳くらいの赤ちゃんだった私がお昼寝をする石膏像とか、母が自分の姿を鏡に映しながら作った裸婦像(製作する姿を想像すると可笑しいが・・・)とか、いろいろ家にはあったが、ほとんど壊してしまったようだ。
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by pataponm | 2008-11-30 11:24 | 母の遺したもの  

母の遺したもの  セーター

母は、絵画、彫刻、織物、人形作り、いろいろなことを手がけて来たが、これとは別に編み物と洋裁は、料理や掃除と同じレベルの日常の営みとして続けていた。特に編み物は、体力がなくなって料理も洋裁もできなくなってからも、それこそ死ぬまでやっていた。亡くなったときにもアトリエの机の脇に紙袋に入った編みかけのセーターがあり、編み棒ごと棺に納めたくらいだ。
私の記憶にある母の膝には、いつも編み物があった。そうやって家族全員のセーターを、いったい何百着編んだことだろう。私は物心ついてから大人になるまで、母の編んだセーターを、ありがたいとも思わず、当たり前のように着ていた。

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◎ざっくり編んだ厚手のカーディガンをいくつも編んだ。ともかく、やるとなったら最高級の道具と材料を使う母、一着分3万円くらいする毛糸を使っていた(貧乏で、新聞をやめたりお茶を飲むのをやめたりしていたのに・・・)。このカーディガンも上質の素材だ。それなのに私は、「厚手のカーディガンなんて、外に着て行く機会もないし・・・」と思いながら、タンスの肥やしにしていた。

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◎ラメ入りのモヘアで編んだセーター。簡単そうだがブロックごとに編み目の方向が変わる、とても複雑な編み方らしい。これは色が素晴らしい。それなのに私は、「モヘアは太って見える」と思ってあまり着なかった。実家に帰るときだけ一応着ていくと、「そのセーター、いいねえ、私が死んだら形見になるね。」と、自画自賛していた。そのころの母はまだぴんぴんしていたので、聞き流していたが、本当に形見になってしまった。

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◎編み込み模様のセーター。これは本当の形見だ。病気で外出もあまり出来なくなっていたくらいのときに、よくこんな複雑な模様を根を詰めて編んだものだと思う。せっかく編んでくれたのに袖が短いと文句を言ったら編み足してくれた。ところが、少し認知症の気が出ていたころで、どうしても模様編みができなくなってしまい、何度も何度もほどいてやり直したらしい。叔母(母の妹)から聞いた話だが、母が電話して来て「どうしてなのかしら、どうしても編めないの。」と言うので、叔母が「編み込みなんてやめて、ゴム編みで伸ばせばいいじゃない。」とアドバイスしたそうだ。編み伸ばした部分はゴム編みになっている。デザインのバランスを保つために裾にもゴム編みを足している。「セーター、やっとやっとやっとできました。」という手紙を添えて郵送して来たのは、亡くなる2ケ月前だった。あの手紙は、今でも辛くて読み返すことができない。
それなのに・・・、やはり着る機会がなく、一度しか着ていない・・・。

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◎私が中学か高校のころに編んでくれたセーター。タートルネックのセーターのことを「とっくりセーター」と言っていた時代だった。イギリスのフィッシャーマンセーターの図案を模した模様編みだ。フィッシャーマンセーターは、海の男が何十年も着て息子の代に譲ったりしたらしい。潮風をたっぷり吸って、編み目も固まり、風も通さないしっかりしたセーターになったようだ。このセーターも何十年もの年月を経ている。
そういえば、このセーターは本当によく着た。今は、厚手のセーターを着る人がほとんどいない。どうしてなのだろう。子供たちは真冬もトレーナーで過ごし、セーターやカーディガンをほとんど着たことがない。今は建物の中や電車の中まで暖房完備で、脱ぎ着の不便なセーターは着なくなっているのだろうか。

私が母の遺したセーターを着ないのは、時代のせいだったのだ。そう思うと少し気が楽になる。
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by pataponm | 2008-11-20 16:26 | 母の遺したもの  

母の遺したもの かばん

若いころの絵画、彫刻から始まって晩年のテキスタイル製作、人形制作、編み物と、母は実にいろいろなものに手を出して楽しんでいた。
父は母が何か新しいことを始めて没頭していると「いろんなことをやりすぎるよ。好奇心が強すぎて飽きっぽいんだよなぁ。」と言っていた。確かに、絵画一筋貫いて家族を養い、趣味一つ持たずに生きて来た父から見れば、「楽しい、面白そうなもの」だけに飛びついて夢中になる母はそんな風に見えたかもしれない。でも、没頭したものすべて「深入り」のしかたが並大抵ではないので、それはそれで偉業といえるのではないかとも思う。
「父さんは、私のやること全然認めてないの。」と、ときどきぼやきながらも、母はやりたいことはやり通した。それでも多少は父に遠慮していたのか、父が出かける日には「今日は一日中好きなことができる」と思って、父を見送った玄関先で小躍りしたい気分になったと言っていた。

そんな母が次々と熱中したものの中に、かばん作りがあった。いったん始めたものは、材料、道具ともに最高級のものをそろえる母、皮加工専用のミシンを買い、本皮や貴重な布を贅沢に使っていくつものかばんを作った。
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◎パナマ共和国のクナ族が起源と言われる民族手芸「モラ(MOLA)」の布を使ったかばん。モラとは、何色もの布をあらかじめ重ねておき、切り抜いて下の色を出してかがっていくという、「逆アップリケ」ともいわれる手芸だ。このかばんに使われたのは、現地の人が作ったオールドモラといわれる貴重なものだ。

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◎左の二つは、チロリアンテープをあしらったポシェット。母はチロリアンテープにも夢中になって、スイスやオーストリアなどに行くという人がいると頼んで買って来てもらっていた。1メートル数千円もする高価なものばかりだった。右上はスエード。右下は、自分で織った布を使ったもの。

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◎娘が小学生のころ作ってもらったピアノの楽譜を入れるおけいこかばん。ここにも幅広のチロリアンテープが使われている。

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◎叔母(母の妹)は、デンマークのクロスステッチを永年やっていて、多くの作品を作り出している。テーブルクロスとしてもらった刺繍作品を、母はかばんに仕立て直した。
「切っていい?って聞くから、いいわよって言ったけど、構図考えて刺したものなのに、ちょっとがっかりした。」と、後になって叔母は私にだけ話した。

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◎上は、ドイツ製のタオル地を使ったもの。下は、ブータンの人が織った布で、メーター2万円だったか、驚くような値段で買ったものだ。

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◎自作の布で作ったかばん。

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◎布の織り目のアップ。
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by pataponm | 2008-10-31 11:24 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 織物

母が亡くなったあと、父はときどき「母さんは、可哀想なことをしたなぁと思うね。」と言う。今まで両親や兄を送って来たが、こんな気持ちになったことはあまりないね、と言う。
私が、「好きなことばっかり、毎日やって過ごしてたんだから、幸せな人生だったじゃない。」と言うと、「好きなことばっかりやって楽しんで生きてたから可哀想なんだよ。」と言う。

それほどまでに、母は好きなことに没頭し、熱中して取り組んでいた。人形作り、かばん作り、編み物、織物、合間に100坪の畑で野菜作り・・・

先日実家に帰った機会に、母の織物の作品を写真に撮った。実用的なショールや敷物、テーブルセンターなどは、買ってくださる人も多く、2度ほど開いた個展や人の紹介などでずいぶん売れてしまった。残ったのはわずかだが、売るつもりで保存していたのか、値札がついたままのもあった。
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◎母のアトリエに長い間掛かっている壁掛け。初期のころの作品で、いろいろな試みをしている。

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◎センターと敷物。上は木綿で下はウール。後年、北欧の織物に興味が定まると、スウェーデンから文字も読めない本を取り寄せて試行錯誤しながら北欧のデザインばかり織っていた。図案を決め、色を決め、何百本もの糸の操行通し(縦糸通し)をやれば仕事のほとんどは終わり、横糸を織り込んでいくトンカラリンの作業はそれまでの作業に比べればいかほどのこともないそうだ。
父のアトリエの奥に母の6畳の小さなアトリエがある。スウェーデン製の織り機を入れるともう部屋はいっぱい、そこで母は日がな手仕事をして過ごしていた。

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◎ストールとテーブルセンター。

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◎敷物2点。下側になっているのは裂き織りのようだ。
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by pataponm | 2008-10-17 10:47 | 母の遺したもの  

母の遺したもの 人形

夫が夏休みに入り、家族全員で私の実家に行った。
平日に私一人で行くことはあっても、家族で行くことは意外に少ない。車なら圏央道のお蔭で1時間で着いてしまう。
いつも電車で2時間半かけて行って、買い物、炊事、マロンの散歩とこなしているが、早く着く上に買い物は夫が行ってくれるし、炊事は娘が手伝ってくれるし、マロンの散歩は息子が引き受けてくれるので、ゆっくりする時間ができた。
母のアトリエに入り、母の遺した物を見る。3年前に亡くなった母は、若いころは絵や彫刻をやり、後半生は織り、染色、人形造りなどに熱中して過ごした。
人形は、随分たくさん作って売れてしまったが、特に気に入ったものを何体か手元に置いていたようだ。いつも部屋にあったので特に注意して見たこともなかったが、こんなに手の込んだいい物を作っていたのか、と改めて感心する。
母の遺した仕事を思えば、今私が「クラフトです」なんて言ってやっているものは、子供の手遊びみたいなものだ、と思った。

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◎近所に和裁をやる方がいて、母が人形を作り、その方が着物を縫って共同で製作していた。布は、母が人形を作っていることを知って友人たちが自分の若いころの着物をくれたりしたようだ。非常に貴重な布もあったらしい。

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◎「可愛くない顔が好きなの」と言って、母はいつも少し目の釣りあがった気の強そうな表情の女の子の顔を作っていた。

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◎洋服を着た人形は、母がすべてを作った。帽子とカーディガンは手編み。「彫刻、洋裁、編み物、刺繍、織物、今までやって来たもの全部が生かせるのが人形作りなのよ」と言いながら楽しそうに作っていたのを思い出す。ちなみに、人形が座っているソファのカバーは母の織ったもの。

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◎和裁をやるお友達の他に、染色をやる方もいて、この人形の着物は、その方の染めた紅型ではないか、と思う。下の絨毯も母の手織り。

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◎上の人形の後ろ姿。伝統的な市松人形もよく作ったが、こんな髪型のものもまたいい。

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◎帽子、ブラウス、スカートにほどこされた刺繍も母が刺した。靴は革で手作りだ。
私が結婚式のお色直しに着たドレスは母が縫ってくれたものだが、数年後に裾を切ってワンピースに仕立て直してくれた。そして私の誕生日に人形を作って、そのとき切り取った布で作った服を着せてプレゼントしてくれた。10年以上もピアノの上に無造作に置き放し、今は屋根裏・・・にあったかな・・・?随分ひどい扱いをしていたものだ、今度探し出してまた飾ってあげよう・・・と思った。
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by pataponm | 2008-08-10 16:57 | 母の遺したもの