カテゴリ:東日本大震災( 9 )

 

震災後1年

震災1年目の日の午後、買い物に出たら近所の農家の紅梅が見事に咲いていた。例年2月の初め、真っ先に咲く梅だ。早い年には1月末に咲くこともあった。今年は1ヶ月以上の遅れ。
この日が来るのを待って咲いた鎮魂の花のようにも見える。
b0134988_12531896.jpg


そのまま駅前のデパートへ。震災の起きた午後2時46分が近づくと黙とうを呼び掛ける館内アナウンスがあり、その時刻になったら音楽が止まり15秒間ブーという電子音が鳴った。店員も客もその場に佇んで頭を垂れた。

まだ風は冷たいが少しずつ暖かくなってきて、ときどき風に乗って花の香りがほのかに漂って来る・・・、そんな3月の匂いをかいでいると、昨年の3月の重苦しい自分の気持ちや世の中の雰囲気が、感覚的にふっと蘇えってくる。

◎一昨日、友人から近所に咲いた河津桜の写真が送られて来た。春先の「花が咲いた」という話題は心が癒される。
b0134988_1255476.jpg


しかし、震災1周年を待っていたかのように、昨日M6を越える地震が2度あった。
夕方の三陸沖の地震では津波注意報が出たため、7時のラジオニュースは30分間地震情報のみで終始した。夜9時のニュースでその地震の報道をしている最中に地震速報が入り、千葉で地震が起きた。これは埼玉でも震度4でかなり大きかった。それからしばらくはテレビ画面に額縁ができて交通情報や地震の規模情報が常時流れる状態。
春の空気の匂いに加えて「あのとき」の記憶がまた蘇える。
[PR]

by pataponm | 2012-03-14 12:52 | 東日本大震災  

半年前の新聞記事

数日前の朝、自転車の前かごにセカンドバッグを置き忘れたのに気づいて、駅の改札から自転車置き場まで約200mの距離を全力疾走した。
その日は荷物が多くて、いつも大かばんに一緒に入れるバッグを別にしたのだ。バッグには財布、家の鍵、クレジットカード・・・すべて入っている。盗られないまでも、親切な人がどこかに届けてしまっていたら、私の1日の予定はおじゃんになり、たくさんの人に迷惑をかける。
必死の思いで駆け付けたら、幸いバッグはまだ自転車の前かごの中にあり、ちょっと遅刻したくらいで事無きを得た。けれど、あんなに走ったのは高校の体育祭以来。噴き出る汗は電車の中だけでなく目的地に着いて人に会ってからも収まらず、むかむかした吐き気のような気持ち悪さも長く残った。
それだけではない。夜、二階に上がろうとしたら階段の途中で両足のすねの脇がこむら返りになり、足を上げることも下げることもできなくなってその場に固まってしまった。両すねの一部が「ぼっくん」と気味悪く窪んで戻らない。
激痛をこらえて一段ずつ足を落とすようにして10分もかかって階段を下り、ソファにバタンキュー。

横になって考えたのは、不謹慎かもしれないが津波から逃れて高台へと走りに走って助かった人たちのこと。
陸前高田で60年前にも津波で家を流された男性は、今回も自宅を流され、高台の災害時指定避難所に逃げたがそこにも津波が来て、カーテンレールにつかまって助かったという。テレビで淡々と、むしろ明るく、壮絶な体験談を話していた78歳のその方の姿などを思い出す。
そして、あぁ、こんなことじゃ私は逃げられないな、と思った。

津波といえば、不要になった新聞の切り抜きを捨てようと思って、こんな記事があったのを見つけた。
b0134988_17162823.jpg


新聞の日付けは2010年11月7日。震災の4ケ月前だ。
東北から関東の太平洋岸を450年から800年間隔で巨大津波が襲った形跡がある、という記事。
平安時代(9世紀)と室町時代(14世紀)にM8を越える地震があったという記録が残っていて、5世紀や紀元前にも巨大津波があったとされる。
記事は、研究者の「室町時代からの経過時間を考えれば、巨大地震はいつ起きても不思議はないことになる」という言葉で締めくくられていた。

私がこの新聞のページをとっておいたのは、「北軽井沢ミュージックホール」に関する記事を夫に見せようと思ったから。同じ面にある津波の記事には全く気付かなかった。当時話題になったのかも知れないが、「よく言われていること」ぐらいに思って記憶にも残らなかったのだろう。
だいたい「450年から800年間隔」というスパンの話は「何十年」という単位で生きている私たちにとって現実のこととして捉えにくい。
しかし、大震災が、現実として起きてしまった。平安、室町の大地震のときと全く同じ震源域で。
そうなると、「30年以内に東海地震が起こる確率85%」というのは「生きている間に必ずある」と考えた方がいいのかもしれない。
200m走ってこむら返りおこしている場合じゃないですね。
[PR]

by pataponm | 2011-06-17 17:16 | 東日本大震災  

疎開

昨夜遅く、宮城県北部で震度6強を記録する地震があった。ここ埼玉南部は震度4、今までの余震にない縦に細かく揺れる揺れ方で時間も長く、コンポがまた落ちるのではないかと押さえていた。
震災後間もなく1ケ月になろうとしているのに余震はいつまで続くのか。というか、これが本当に「余震」なのだろうか。

一夜明けてテレビの交通情報を見たら、東北新幹線などは止まっていたが首都圏の在来線は「平常通り運行」となっていた。先週土曜日のやや強い余震(埼玉南部震度4)のときも電車は止まらず、都心に出ていた私も難なく帰宅できた。
首都圏も打たれ強くなったものだ。

ところで昨日の朝日新聞朝刊1面に「震災で県外転校7000人」という記事が出ていた。
被災地から避難して県外の学校に転校する児童生徒についての記事だったが、福岡市や北九州市が受け入れた転入者の出身地は、福島、宮城が31人に対し関東5県からが34人になるという。
「大気や水の放射性物質汚染を恐れて『疎開』した例も多いことがうかがえる」と記事には書かれていた。
私の読み間違いか。福島、宮城から関東5県に一時避難した人たちが改めて九州へ疎開したのか、と思ってもう一度読んでみたが、やはり関東在住の人が疎開した例も少なくないらしいのだ。
そして受け入れた県は「学費のサポートなどの支援に乗り出した」という。

それはおかしい。政府から避難指示の出ていない地域からの疎開は、自主的な避難ととらえて自治体が受け入れることはないと思う。もっと必要な人がたくさんいるのだし、私たちは不安をかきたてる情報や安心させられる情報に振り回されながらも現状を見極めて今住んでいるところに踏みとどまっているのだから。

◎タビィは「余震がこわい~」と言っているように見えるけど、これで最高にリラックスしているんです。人が近づく気配に片目を開けて「首なでてくれるかな~、頬ずりしてくれるかな~」と期待してもうゴロゴロいい始めている。
b0134988_1044194.jpg

[PR]

by pataponm | 2011-04-08 10:44 | 東日本大震災  

震災当日の浜離宮

3月11日、東北関東大震災の起きた日の午前、浜離宮で遊んでいた。遥か遠い昔のことのようにも思えるあの日の写真を改めて見ると、春の息吹が確かに感じられる。その後、被災地をいじめるような寒気が日本列島に流れ込み、原発事故のことなどもあって、春を探す、などというのどかな気分を忘れてしまっていた。

その日の午前10時、両国の水上バス発着場から乗船して出発。船室に案内されたが窓越しに景色を眺める気は最初からなく、風が冷たいけれど迷わず甲板へ。

◎水上バスは隅田川に渡されたいくつもの橋の下をくぐって行く。橋、低くない? 通ってみれば頭上に余裕はあると分かるのだが、橋の下に来るたびに「ひゃ~」と思わず首をすくめてしまう。
b0134988_20331469.jpg


◎読売新聞社。トンネル状に穴のあいた社屋、斬新な設計と思ったが、日照権問題であのような形になったのだそうだ。
b0134988_20332377.jpg


◎大都会の真ん中を船に乗って通り抜ける。4時間後に震災に見舞われるとも知らず、気分は爽快。
「もし、このとき地震にあっていたら・・・。」1枚1枚写真を見ながら、ついシミュレーションしてしまう。
b0134988_20333031.jpg


◎近代的なビル群の中に突如現れた昔ながらの街並み。佃島だ。
b0134988_20333616.jpg


◎聖路加病院のオフィス棟。てっぺん近くにある二つの棟の連絡通路が特徴的。地震を経験した今となっては、ぜったいに渡りたくない通路です。
b0134988_20334418.jpg


◎勝鬨橋。
b0134988_20335099.jpg


◎約30分のクルーズで浜離宮恩賜庭園の水上バス発着場に到着。両国だけでなく、浅草、お台場などから来る便もあるらしい。
b0134988_20335650.jpg


◎将軍お上がり場。江戸時代、将軍がここから浜御殿に上陸したという。
b0134988_2034379.jpg


◎梅の花はほぼ満開、いい香りを放っていた。
b0134988_2034957.jpg


◎息を飲むほど素晴らしい菜の花畑。遠くに見える赤いつぶつぶは幼稚園児の帽子の群れだ。菜の花に子供たちの体が半分埋まっている。菜の花の匂いは、なばなを茹でたときの匂い。むせかえりそう。
遠くに見えるのは龍舌蘭の葉。100年に一度大輪の花をいくつも咲かせるという。龍舌蘭はテキーラの材料としても知られる。
秋にはこのお花畑はコスモスでいっぱいになるそうだ。
b0134988_20341539.jpg


◎潮入の池に渡された「お伝い橋」。この池は海水を引き入れ、東京湾の水位の上下に従って水門を開閉して池の水を調節している。
b0134988_20342394.jpg


◎池中央にある「中島の御茶屋」。将軍や公家たちがここで庭園の眺望を楽しんだ。今は抹茶や和菓子を味わうことができる。
b0134988_20343017.jpg


◎あちこちに大木がある。タブの木というそうだ。江戸時代からあるのかと思ったら、当時は庭園として梅、松、楓、桜しかなかったのだが、明治以降自然と他の木が増えていったのだという。
b0134988_2034401.jpg


◎富士見山と呼ばれる小高い丘がある。頂上から。今通って来た潮入の池のお伝い橋や茶屋が見える。
b0134988_20344812.jpg


◎鴨場。小さな穴からこっそり池を覗き、獲物の鴨を見定めるのに使われた。
b0134988_20345584.jpg


◎これも同じ用途のものか。この裏に引堀といわれる水路がある。
b0134988_2035292.jpg


◎よく馴らしたおとりのアヒルを使ってこの水路に鴨を追い込み、水門を閉める。そして網などを使って鴨を捕まえたそうだ。
現在は、捕まえて喰われる心配のない鴨たちが池で悠々と泳いでいるのだが、獲物となった鴨の霊を慰めるための鴨塚が昭和になって建てられた。
b0134988_2035940.jpg


◎猫がいた。きれいな色の品のある猫。とても人に慣れていてすぐ寄って来た。誰かが餌を与えているのだろうか。
b0134988_20351659.jpg


◎三百年の松。近づいて幹はどこかとよくよく探したが見つからない。あるのは枝のつっかい棒だけ。
b0134988_20352222.jpg


◎横に回って分かった。これは1本の松で、巨大な幹が土手の上にあったのだ。約三百年前に六代将軍家宣が庭園を大改修したときに記念に植えたという。
b0134988_20352923.jpg


◎おたのしみのランチは、浜離宮からもよく見えた高層ビル「カレッタ汐留」47階にあるスカイレストランで和風弁当。
さわら木の芽焼き、穴子小袖ずし、蓮麩田楽、海老芋の煮物、菜の花お浸し等々、上品な料理が少しずつ、ご飯は桜エビの炊き込みご飯。
b0134988_2035391.jpg


◎窓からは素晴らしい眺望が楽しめる。お台場。
b0134988_20354816.jpg


◎築地市場。半年ほど前に、市場に勤めている友人の甥御さんの案内で場内、場外を見物し、おいしいお寿司を食べてたくさん買い物をした。
b0134988_2035551.jpg


◎浜離宮が目の下に見える。どこを歩いたか、指でなぞれるよう。
b0134988_2036267.jpg


◎スカイツリー。震災の5日後に、ひっそりと完成時の高さ634mに達した。あの、余震の頻発する中、地上600mで作業を続けていたのかと驚いた。
b0134988_20361044.jpg


私は一足先に店を出て、2時42分に47階と46階の間のガラス張りの広い踊り場で上の写真を撮っている。
友人たちが店の出口で「あれ? Mさんは?」と言っているのが聞こえて、それから「あ、やっぱりあそこで写真撮ってた」などと言いながら降りて来て、皆で46階のエレベーターに乗った。エレベーターの中には階を示すボタンがなく、「1階直通じゃない?」と1つしかないボタンを押したらなぜか47階に戻ってしまった。また押すと今度は46階で止まる。やっとこのエレベーターは二つの階を行き来するだけのものと気づいて、下まで行くエレベーターを探して乗ろうとしたらAさんが「ちょっとこのレストランのメニューが気になる」と寄り道しそうになるのを「いいからいいから」と促して総ガラス張り(天井の一部も)で大眺望、日本最高クラスというシースルーエレベーターに乗り、高速33秒で地上200mから一気に下降して気持ち悪くなりながら1階に着く。ビルの外に出て解散することになり、それぞれの帰路に大江戸線がいいか山の手線がいいかと話し合っている最中に、ぐらぐらっと地震が来た。
くどくどと書いたが、この間わずか4分。47階でスカイツリーの写真を撮ってから地上に下りて地震にあうまで、たったの4分間だったのだ。このことを思い返すたび、「47階にいなくてよかった、エレベーターの中にいなくてよかった」と、その後何度も何度も繰り返し胸をなでおろしているのです。
[PR]

by pataponm | 2011-03-25 20:36 | 東日本大震災  

やる気まんまんのマロン

今日、明日の計画停電は中止になった。
今日もまた開店と同時にスーパーに行ったが物は少ない。米はなく、牛乳は個数制限でやっと1本買えた。
ガソリンはやはり入手できない。実家の父に何かあったら・・・、と思うとちょっと不安。

◎震災3日前の8日に実家に行った。梅が咲き始めていていい匂いを漂わせていた。
地震後電話したら、「ゆらゆらきて、これは大きいなと思ったけど大した揺れじゃなかったよ」と言っていた。電池やろうそくが買えなくなってるよ、と言うと「欲しいの? 送ろうか?」だって。そっちだってないんですよ!空襲で家を焼かれ、焼け野原の東京本郷で行き抜いた人間は強い。
b0134988_21285148.jpg


◎母の部屋で手染め手紡ぎの毛糸を大量に見つけた。いくつかの毛糸玉が入ったビニール袋がプラスチックの箱にぎっしり、それが2箱。母は生前織物をやっていたのだが、糸から手作りという凝りようだったのだ。
b0134988_212917.jpg


◎いつでもやる気まんまんのマロン。「ぼくがんばる、ぼくがんばる」とぐいぐい歩く。
地震にも全く動じることなく、普段通り過ごしているそうだ。
b0134988_2129968.jpg

[PR]

by pataponm | 2011-03-19 21:29 | 東日本大震災  

癒しの乙女

今日もスーパーが、停電時間に合わせて11時で閉店するというので、開店と同時に行って来た。
相変わらず米やトイレットペーパーの棚はカラ。「買い占めるな。」と言われても、家に一つもなくなった人はやはり困るだろう。
昨年末北京に行って知ったのたが、中国の人はトイレで使った紙を流さず、バケツに捨てる。蓋もないバケツで中は見えるし臭うし、ちょっとびっくりしたのだが、いざとなったらこちらもその方法で、新聞紙でも週刊誌のページを破ってでも利用すればいいということだ。
米やパンがなくなれば、粉から作ればいいと思って小麦粉の売り場に行ったら、考えることは皆同じ、値段の高い500g入りのしか残っていなかった。

災害時の日本人の秩序ある行動と互いを思いやる気持ちは、世界の人々を驚かせ感動させているらしい。アメリカでは「何故日本では暴動、略奪が起きないのか」というディスカッションまで開かれたという。
友人がミクシィで、元気の出るつぶやき集を紹介していた。
配られた毛布の数が足りず困っていたお年寄りに自分の毛布を差し出した人、薬局であるだけのホッカイロを買ってバスを待つ列に配った人・・・、若い人たちがツイッターに綴り「日本は凄い国だ。素直に感動した」と書いている。

◎癒しの乙女。人間みたいな寝姿でリラックスしている。
b0134988_1121584.jpg


◎人間の赤ちゃんみたいな姿勢でだっこされて。からす足袋のような足の裏が乙女ちゃんのトレードマークだ。
b0134988_11211159.jpg


 ※福島の原発事故について、専門家の tama ちゃんが自身のブログで発信を続けている。間違いの多い報道を指摘し、私たちの本当に知りたいことを教えてくれて余計な不安を取り除いてくれる。
冷静な判断で書かれていてとても参考になります。今後も局面が変わる都度、tama ちゃんのブログを参考に行動しようと思う。
  風のたより
[PR]

by pataponm | 2011-03-17 11:21 | 東日本大震災  

想像を絶する

「想像を絶する」という言葉を震災の報道の中で何度も耳にする。言葉にしてしまえば一言だが、人間の想像力で考え出し得る事態を遥かに上回る凄惨な状況が今東日本一帯に繰り広げられている。

津波に呑みこまれて「壊滅」した町の様子、膨大な犠牲者の数、原発の恐怖・・・、驚きを通り越して心が虚ろになってしまう。何をする気にもならない。週末に予定されたコンサートの練習をしなければならないのに楽器を手にする気にならない。本を開いても活字が頭に入らない。何をするにも「こんなときに」という気分になってしまう。
必要な家事と、サバイバルのための買い出し、分かりにくい原発の解説報道や、はっきりしない交通情報、計画停電情報をテレビにくぎ付けになって見る、そんなことで時間が過ぎて行く。
被災地の様子は、遠景からぐっと現場に近づき、個々の被災者の方々の悲痛な声なども報道され始めている。テレビの前から離れて台所に立ったりするとき、体が少し震えているのを感じる。
私に何かできることがあるのだろうか。家族も親戚も、周りの友人たちも皆無事で住む家も失わなかったことへの感謝の気持ちを何かの形で表さねばならないだろう。
昨年の2月に福島県の南相馬市に演奏旅行に行った。ちょうどチリの地震の影響で津波警報が発令されて常磐線が不通になり、帰りの足を奪われた。結局津波は事なきを得、迂回して帰宅することができたが、今回の津波被害で町は壊滅状態となっている。テレビで映像が流されると、私たちの泊まったホテルは・・・と、目を凝らして見入ってしまう。コンサートを行った会場は避難場所になっているようだ。指揮者の矢澤先生から支援協力のメールが来た。ささやかながら協力ができたら、と思う。

こんなときに、石原都知事の「大震災は天罰」発言には本当に怒りを覚えた。
「我欲に縛られた日本の政治を津波で洗い流す必要がある。これは天罰だ」と言ったあと、報道陣に指摘されると「被災地の方々はかわいそうですよ」と言い繕ったらしいが、真っ先に人の命というものに思いが到らないなんて、人の心を持っていないのではないかと思ってしまう。
「生殖能力を失った女性は存在価値がない」発言といい「歌舞伎座は銭湯みたいで嫌だ」発言といい、思い出すたびに怒りが蘇えってくるような発言を、この人はする。

◎タビィだけは、いつもとおんなじ生活を営んでいる。寝床から出て来て思い切り伸びをしたり、庭の鳥を狙ったり、被災地の写真が掲載された新聞の上で丸くなって居眠りしたり・・・。
そんなタビィを見ていると、ほぉ~~っと緊張がほぐれ、思わず抱きしめて頬ずりをしてしまう。限りなく癒される。
b0134988_1012339.jpg

[PR]

by pataponm | 2011-03-15 10:12 | 東日本大震災  

計画停電

昨日から関東地方に計画停電が実施された。昨日は結果的に実施されなかったものの、首都圏の電車がストップしたため大混乱、夫は出勤できず自宅待機となった。

私の住むA市は5つあるグループの3つに重複して入っていて、結局いつ、何時間停電するのか分からない。今朝計画停電が実施されたらしいことを、テレビの「A市上空より」の映像を見て知った。なぜか我が家周辺は停電していないが、映像を見ると、大きな交差点の信号が停電しているのに交通整理の巡査も立たず、右折する車や左折する車が交差点中央で右往左往する隙をみて中学生らしい子供たちが走って横断歩道を渡っていた。事故が起こらないことを祈る。

昨日は、夫が町中自転車で走り回って灯油を確保して来たが、ガソリンスタンドは売り切れ閉鎖となっていた。
私は開店30分後にスーパーに行ったら、米、パン、カップ麺、単1乾電池、ろうそく、トイレットペーパー、ティッシュ等々、サバイバル物資がすべて売り切れ。野菜も持ちのいいじゃがいもなどが売れ切れていた。しかも開店1時間後には閉店してしまった。牛乳や卵、野菜が買えただけでもよかった。明日から、食料などの物資が不足するのか回復するのか、全く不明。だから人は買いだめに走り、余計に物がなくなるのではないか。

◎ろうそくが手に入らないので、屋根裏をひっかき回してクリスマスのろうそくを出して来た。キリスト生誕の絵が描かれたろうそくや、炎の熱でくるくる回るオーナメントなど、なんだかのどかな雰囲気・・・? ライトは、単1乾電池が手に入らないのでつかない。
b0134988_9274896.jpg

[PR]

by pataponm | 2011-03-15 09:28 | 東日本大震災  

水上バスツアー 転じて帰宅難民

3月11日に東日本を襲った大地震、みなさまはご無事だったでしょうか。
私は、友人4人と「隅田川水上バスと浜離宮散策、地上47階眺望レストランでのランチ」の楽しいツアー・・・だったはずが地震に遭遇、夜明かし、帰宅難民という苦難の経験をすることになった。

◎気持ちのいい水上バス。訓練中のボートの学生と手を振り合った。スカイツリーが間近に見える。
b0134988_1420422.jpg


◎浜離宮庭園。菜の花畑が素晴らしかった。
b0134988_14201244.jpg


◎眺望レストランからお台場を見る。この数時間後、フジテレビの近くのビルから火の手が上がった。
b0134988_14202077.jpg


◎東京タワーもすぐそこに。約1時間後、地震の揺れで先端が曲がることになる。
b0134988_14242193.jpg


◎私たちが散策した浜離宮が、目の下にまるで絵地図のように見えることにはしゃいでいた。
b0134988_1420346.jpg


食後も話が尽きず、友人の一人が用があるというのでようやく腰を上げたのが2時半過ぎ、47階からエレベーターで下に降りて、それぞれが帰る路線を考えていたときに地震が起きた。
大きくゆっくりと横にスライドするような揺れ。4人が互いに支えあって倒れそうになるのをこらえていた。知らない人がすがりついて来た。

◎地震直後。地震が収まったあとも大きなビルが「みしっ、みしっ」と鳴っていた。体はいつまでも「船酔い」のように揺れている感じ。皆電光掲示板を見上げているが、コマーシャルばかり流していて情報が得られない。
b0134988_14204177.jpg


◎ビルを見上げると、窓ふき作業中のゴンドラが大きく揺れている。中にいた人は恐ろしかったろう。
b0134988_14205170.jpg


同じビルの1階にあるパン屋兼喫茶で3時間ほど様子をみる。携帯電話、メールは通じない。ときどき混乱の網目をくぐって通じることがあり、他の3人は家族や職場と連絡がとれたが私は友人の携帯を借りても通じなかった。
そのうち喫茶が5時半で閉まるので出てほしいと言われて(パン屋は閉店するが、ビル内には留まってもいいということだった)トイレに立ったらそこに公衆電話があり、人が通話している。もしやと思い家に電話すると通じて息子が出た。埼玉の家はコンポが落ちてCDが散乱したなどの被害があったが無事だった。市内は大規模な停電になっているが何故かうちは大丈夫ということだった。息子は父とも連絡をとってくれていて無事を確認することができた。

息子に夫の会社の電話番号を聞き(最近引っ越した事務所の場所を私は知らず、電話番号も携帯に登録していなかった)夫とも連絡がとれたので、パンやサラダを多めに買って友人たちと別れ、新橋で夫と落ち合うことができた。夫の会社は東京駅の近く。地震発生時にこんなに近くに私が居られた偶然が、本当にありがたかった。
不幸中の幸いとも言うべきラッキーな偶然がもうひとつ。今写真の撮影時間を見ると、ビルの47階から呑気にスカイツリーを撮っていた6分後に地震が起きている。あと5分地震が早ければ地上数十メートルのエレベーターの中で宙づりのまま閉じ込められていたわけだ。また、5分遅ければ4人は解散していて長い不安な時間を単独で過ごさなければならなかった。

夫と共に新橋から銀座を通って東京駅まで行く間、多くの人々が歩いていたが、皆不思議に落ち着いて混乱もなかった。
通りの飲食店などは通常通り営業していて、途中夕食を食べることもできた。

会社に到着、まずは寒空に路頭に迷う心配はなくなり、テレビを見て情報を得ることもできるようになった。恐ろしい津波の情報と映像が流されていて、どんなに巨大な地震だったかということを改めて知る。

新幹線が品川まで開通したというので夫と様子を見に行く。やはり思うように運行はしていないらしかった。

◎多くの人が駅の構内で待機している。
b0134988_14205777.jpg
b0134988_1421416.jpg
b0134988_1421128.jpg


テレビの情報では、JR の一部の駅が、深夜シャッターを下ろして避難していた人たちを締め出したという。東京駅でもそうだったのだろうか。だとしたら、あまりにも非人間的な行為と言わざるを得ない。駅前のブックセンターですら「終日営業します。 どうぞ避難場所としてご利用ください」と張り紙をして夜明かしする人を受け入れていたというのに。

また、私鉄各社や地下鉄は区間を区切ってでも運行できるところから動かしていたのに対し、JR は早い時期から「今日いっぱい運休」と決定していた。有事のとき、そういう姿勢ってどうなの、と言いたくなる。

◎バスを待つ人の大行列。
b0134988_1429147.jpg


翌朝、JR が動き始めたとの情報を得て7時過ぎ、会社を出る。
山手線が動いていないので銀座線で上野へ向かう。想像を絶する寿司詰め電車に乗れたはいいが、上野広小路駅で、前に電車が詰まっているため停車して動かなくなった。そこで降りて徒歩で上野駅へ。

◎上野駅は群衆の波で駅構内などとても入れる状態ではなかった。
b0134988_14292526.jpg


高崎線は諦め、地下鉄やJR を乗り継いで京浜東北線に乗る。路線をよく知っている夫のおかげで効率よく帰路をたどることができたが、間引きのろのろ運転の電車は息も詰まりそうな混み具合で、1時間半身動きもできなかった。途中、貧血のようになって吐き気をこらえながらの強行軍だった。

◎南浦和行きだった電車が途中から大宮行きに変更になったのはラッキー、電車から「吐き出される」という表現がぴったりの群衆が駅の階段を上って行く。
b0134988_14211910.jpg


大宮からは、高崎線に乗るのはやはり決死の覚悟がいるので、遊園地の乗り物みたいな私鉄モノレール、ニューシャトルに乗ってできるだけ自宅の近くまで行く。すいていて座れたのでほっとした。のどかな田園風景、別世界。最寄駅まで娘に車で迎えに来てもらって、会社を出てから5時間、ようやく自宅に到着することができた。
[PR]

by pataponm | 2011-03-13 14:21 | 東日本大震災