逆説的アドバイス

北京オリンピックでジャマイカのウサイン・ボルトが100メートル9秒69という驚異的な世界新記録で優勝したのはまだ記憶に新しい。
9秒6といえば、私の中学時代の50メートル走の自己ベストタイムと同じだ。
つまり、それほどまでに私はかけっこが遅かった。可哀想にそれが娘にも遺伝して、幼稚園のときからかけっこはいつもビリだった。運動会の前日、かけっこがいやだいやだと言う娘に夫がアドバイスをした。
「いいか、かけっこっていうのは走るんじゃないぞ。逃げるんだ」
なるほど、いいアドバイスだと思ったのだが、結果はやはりビリだった。仕方がないか、追って来る子がいなかったんだからね。
夫は、ときどきこのような「逆説的アドバイス」をする。7月15日の書き込み「痛いのとお友達になる」に書いたように、子どもが怪我をすると「いたいのいたいのとんでいけ~」ではなく、「痛いのとお友達になれ!」と言う。自転車に乗れるようになってふらふら走って行く息子の後ろから「道の端を走るなよ。真ん中を走れ!」と声をかける。何てことを言うの、と思ったが、「道の端を走るとバランスを崩しやすいし、その脇を車は構わずすり抜けて行く。真ん中を走れば車は徐行せざるを得ない」というのが夫の考えだ。確かに近所の道路はどこも狭く、バス道路でさえ歩道がない。白線だけが引かれていて、その白線の外側はドブ板、自転車で走るとガタガタいって子供はぐらついてしまう。おまけにところどころにカーブミラーや電柱があって先に進めない所があるので、そこだけ車道にはみ出さなければならないのだ。白線すらない道もあり、その道を大型トラックやミキサー車がぶっ飛ばして走ると私でさえ肝を冷やす。夫の説は、ある意味正しいかも知れない。
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私は、教材会社を退職したあとも、請負で校正の仕事などをしていた。校正というのは、どんなに完璧を期しても見落としが出る。同じゲラを初校、再校、三校、念校と、何回見直しても、その都度必ず誤植を発見するのだ。人を代えて校正するとまた出る。「後世おそるべし」ということわざにかけて「校正おそるべし」と校正者の間では言われているくらいだ。
私はそのことを教材編集者時代に骨身に沁みて知っていた。原稿を「文」として読んではいけない、というのは校正者の鉄則だ。「昨夜のことだった。」という文があれば、原稿の「昨夜の」を読んでゲラの「昨夜の」を見るというやり方だと「昨晩の」となっていても気付かなかったりする。原稿の「昨」を見たらゲラの「昨」に黄の色鉛筆でチェックを入れる・・・というやり方で進めていくのだ。文の下から上へ校正する、という校正者もいるくらいだ。
私が、請け負った仕事をそのようにして一文字一文字校正していたら、部屋に入って来た夫がチラッと見て
「なんだ、そんなやり方してたら却って見落とすぞ。ぼやっと見るんだぼやっと。」と言った。
「ぼやっと見る」・・・・。これまで多くの校正者たちが培って来た実績と血の滲むような努力を一瞬にしてチャラにしてしまうような言葉。しかし夫もまた編集者であり、この言葉は確かにある意味「真なり」なのだ。
一文字一文字にこだわるあまり、大局を見る目を忘れ、紙面全体の体裁が他のページと違っていたり、字詰めや罫線のミスを見落としたりする。意外によくあるのが見出しの誤植見落とし。何気なく本を手に取った人が真っ先に見つけて「あ、この字間違ってる。ひどい本。」となる決定的なミスだ。「ぼやっと見る」目は、確かに必要なのである。ただし、素人の「ぼやっと」ではなく、極めた人の奥儀としての「ぼやっと」でなければならない。

余談だが、ボルトの走りはあまりにも非現実的だった。体が他の選手より頭一つ大きかったこともあって、何だか縮尺率を間違えたはめ込み映像のように見えたのは私だけ・・・?映画「フォレスト・ガンプ」の中で、フォレスト・ガンプがフットボールの強豪選手を追い抜いてぶっちぎりの走りを見せる特撮映像を思い出したのだが・・・。
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by pataponm | 2008-09-16 12:17 | 言葉  

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